道心の中に衣食あり
最澄(さいちょう)の言葉に、
被弘二師。道弘人。人弘道。
道心之中,有衣食矣。
衣食之中,無道心矣。
「世の中には、二種類の先生がいます。
一つは、道という先生です。道(手立て)という先生は、人びとに正しい道を教えます。
もう一つは、人という先生です。人という先生は、正しい道を教えます。
仏門に入り、悟りをもとめる決心があれば、おのずと、衣類と食事はそろいます。
しかし、衣類と食事をもとめる生活の中では、悟りを求めようとする心は決して生まれていきません。」
まず、世の中には二人の先生がいると言います。
一つ目は「道」です。仏教ではお経、学校では教科書ですかね。教科書は私たちに正しい生き方を教えてくれます。
二つ目は「人」です。仏教では師匠、学校では先生ですかね。先生も私たちに正しい生き方を教えてくれます。
つまり、仏法僧(ぶつ・ほう・そう/ぶっぽうそう)の仏さまと僧侶が「人」で、法が「道」となります。
たしかに、わたしたちは、どちらかに教わります。
続いて、悟りをもとめる決心を持っていれば、おのずと衣類や食事、つまり、生活は付いてくるといいます。
反対に、生活を安定したいと考えるのが先だと、悟りを求めるという心は決して起こりません。
これは、非常に実行するのが難しい言葉です。これは、僧侶に対する言葉ですが、ご自身に置き換えてみて下さい。
「目的を決めて、信じてそれに向かって進んでいけば、心配しなくても、生活は安定するよ」
と言われて、「なるほど!」と思いますか?
家賃は払わないとだめだし、携帯代もあるし、子供の塾の費用もいるし、美味しいものもたまには食べたいし、、、
となるでしょう。
私は、この文は非常に厳しい「決心」のあらわれだと思います。
このような決心がなければ、仏門に入って、悟りなんかひらけないぞ!!
と最澄さまに言われているようで、ひ〜!となります。
『論語』では、次のようにこれによく似た言葉が出てきます。
子曰。人能弘道。非道弘人。
「先生は言いました。人は道(道徳)をひろめることが出来るが、道が人を高めることは出来ない。」
あれ?「道」は人を向上させるものではないんだ。
少し、考え方が違うみたいですね。
しかし、この後は、よく似た言葉があります。
子曰。君子謀道,不謀食。耕也、餒在其中矣。学也,禄在其中矣。君子憂道,不憂貧。
「先生は言いました。教養人は、心のありかたを追及するのであって、食べていくことを追及するのではない。耕作(こうさく)しても〔凶作であれば〕食べていけないことがある。〔教養人のように〕学問をしていれば、食べていくことができることがある。〔なぜなら、教養人は、〕心のありかたの貧しさを憂(うれ)えるが、貧乏で食べていけないことを憂えないからである。」
つまり、最澄のことばに置き換えると、仏門に入り、一心に悟りを求めれば、「食べていけるかな〜」なんて考えている暇はない!という意味でしょう。
いずれにしても、「何か目標を立てて、達成したいと思う時は、それに一生懸命になりなさい。
生活はきっと付いてくるから」と後押しをしてくれているのですね。
しかし、むずかしい.....
そういえば今日、車の税金の請求書が届いていました。
払わないと...